フラッシュバック 「リラ」

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フラッシュバック リラ

フラッシュバック リラ

フラッシュバック リラ

フラッシュバック リラ

フラッシュバック リラ

山奥に隠遁の地を求めた僧イヴァン・リルスキ。十世紀には、小さな寺院だった。
僧院文化や歴史、世相に洗われ、大火をも忍んだ現在の姿に彼は何を思うだろうか?

ソフィアへ戻る小型マイクロバスを待つ束の間の日溜り。ほんのりと春に雪を残した
リラ山と余りに美しくコントラストを見せる僧院の佇まい。フレスコ画の際立つ色は
なごりの雪の白さや針葉樹のグリーン、僧侶の黒服と不思議にも調和を見せていた。
雪解けの匂いを含むまだ冷たい春風が山を吹き降ろして来る。釣人は山の気を吸い
ながら微かなフラッシュバックを覚えた。僧イヴァン・リルスキが探し求めたもの?
釣人は一対のライフワーク竿「あづき」と「くろ豆」を思った。制作竿日誌は、まだ
一向に書き進んではいない。釣人は、日溜りに仲良く蹲る二匹の犬を見詰めていた。
この村で育った幼馴染みだろうか?いつもつれあう二匹だろう。そんな竿にしたい。
昼食に戴いたごく当たり前の焼鱒が美味しかった。この山の空気と冷たい水を含んだ

味がした。釣人は僧イヴァン・リルスキが探し求めていたものを微かに感じていた。
たとえ国や宗教が違っていても、自然や運命の中に人が求めるもの、釣人が竿に求め
始めたもの、なぜか日溜りの中で、昔読んだ五木寛之著「青春の門/筑豊篇 下」の
塙竜五郎の言葉が浮かんで来た。僧イヴァン・リルスキはどんな感想を持つだろう?


 「わしはな ー 」 竜五郎は、煙草を出すと、ゆっくりと口にくわえて、
 「この年になってそげなことを言うのも妙な話だが、わしは人間の幸せとは
 一体どげなもんかということに、ようやく気づいたごとある気がするよ」
  .....   独り言のように何かぶつぶつつぶやいていた。
 「それでな、わしはこう思ったんじゃ」 信介は目をあげて竜五郎を眺めた。
 竜五郎の視線は信介の頭の上を通りこして、はるかな冬の空のかなたへ
 注がれているようだった。
 「落着いた、平和な心で、自分のまわりをみつめる。毎日、朝起きたら、
 今日ももう一日生きることができるんじゃなあ、と感謝の気持ちで
 おてんとう様をおがむ。そして三度々々の飯を噛みしめて食い、
 人を恨んだり、金を欲しがったりせんで、夜になったら昔のことや、
 子供の頃のことを思い出しながらぐっすりやすむ。いいか、信介。
 人間の幸福とはそれだけばい。そのほかに何がある。うん、もうひとつあったな。
 それはお互いに優し果気持ちで一緒に暮らせるつれあいじゃ。
 人間はひとりよりも二人のほうがいい。お互いに身をよせあって、
 ぽつんぽつんと喋ったりしながら、ひっそりと生きて行く。
 まあ、そのために人間はあくせく働くとじゃなかろうか。
 わしは今、えらく幸せな感じがするんだよ」
 「あんたも年取ったなあ」 と、信介は言った。
 「年、か。うん、そうじゃ。塙竜五郎も、いよいよ本物の人間らしい人間に
 なった ということさ」 / 講談社文庫 五木寛之著「青春の門]」 筑豊篇 下

この旅を終えたら、またもう一歩、ライフワークの対竿と取り組んでいけそうだ。
春の光を心地良く浴びる犬たちから、何かを教えられた。「イコン」の力を頂く。

 
 

清廉な水 (リラの僧院)

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リラの僧院

「キリール文字」を目にすると正教文化圏を旅している実感が湧いて来る。

リラの僧院

小型マイクロバスは山道 120kmを約3時間走り、ひっそりと佇む僧院へ到着。

リラの僧院

リラの僧院

外壁門を潜り抜けると、突然夢の様な僧院が現れた。周囲の山景に色彩が美しい。

リラの僧院

リラの僧院

リラの僧院

リラの僧院

時代を感じる建物だが 1833年の大火災後に復旧され、ユネスコ世界遺産となった。

リラの僧院

水はとても冷たく、清廉だ。途中リラ川には養殖鱒の生簀(いけす)が見られた。

リラの僧院

旅行中は市販ミネラル水が不要だった。美味しいブルガリア水道水が潤してくれた。

リラの僧院

リラの僧院

リラの僧院

リラの僧院

翌朝のソフィアは気温が下がり雪化粧。南約120kmに在る「リラの僧院」へ出発。
ブルガリア正教の総本山。山奥に在る僧院へは、小型マイクロバスで約 3時間。

村を回り、山道を小型マイクロバスで移動する場合は、高速道路での距離時間を
頭から外しておかなければならない。山道の移動には、思いの外、時間がかかる。
朝に白息を吐きながら出発したが、到着は昼過ぎであった。山村の樹々は細く、
多くが枝に春雪を積もらせていた。ふと高校時代の札幌の冬景色を思い出された。
リラ山奥にひっそりと佇むブルガリア正教総本山の僧院へ到着した。外壁の門を
潜り抜けると、到着した全員が、皆驚きの一声をあげた。雪山を背景に、荘重な
僧院建物と美しい色彩が目に飛び込んで来る。教会内部は撮影が禁じられている。

写真に納められないのは残念だが、厳粛なものは心に留めるべきだと納得する。
許される範囲で旅写真に残そう。途中のリラ川には、養殖鱒の生簀が目に入った。
冷たく清廉な山水を豊富に頂く環境なら、鱒の養殖にも確かに向いている筈だ。
ブルガリア旅行中の市販ミネラル水は不要だった。水道水が余りに冷たく美味しい。
山村での湧き水には喉の渇きを潤された。さすがに、バラや美味しいヨーグルトを
生み出しす国である。ソフィアへ戻る小型マイクロバス出発時間に合わせながら、
静かな僧院で素晴らしいフレスコ画を記憶に留めた。昼食には焼鱒を戴く事にした。
昨晩一夜漬け勉強の「イコン」を、皆で目丸く眺める。心静まる時間を過ごせた。


 

「イコン」の豆知識

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勉強会

勉強会

「イコンて何に?」少年からストレートな質問を受けた。返す説明に戸惑った。
予備知識や先入観を持たぬ方が心に響く時が在る。余り多くは、必要のないものだ。

専門的知識は各自の興味度合により、各人の正確な探求と検証で深められる事が
望ましい。 と、此れはあくまで勉強嫌い釣人の個人的弁解押し付けと許されたい。
とは言え、危うい情報氾濫の時代、信頼出来る研究者著書の言葉から引かせて頂く。
相棒持参の旅本『紅山雪夫著/ ヨーロッパものしり紀行<神話・キリスト教>編 』
新潮文庫この一冊が頼りの綱。「ギリシア正教、カトリック文化圏と正教文化圏、
イコノスタシスとイコン」各項目が歯切れよく明快に説明され、相棒と釣人は
何等かの道標にと研究者の解説を少年に薦めた。長文ですが、君もご一読下さい。
 
 『ギリシア正教(単に正教ともいう)は、われわれ日本人にはわりに馴染みの
 薄い存在だ。それだけに過去千数百年間にわたって正教文化圏だった地域を旅
 するときは、正教についての予備知識があると旅の成果がいっそう大きくなる。
 正教とは何ぞやという話は、まずキリスト教の発展史から始めねばならない。
 当初、キリスト教の五大中心地はエルサレム、アレキサンドリア、アンティオキア、
 コンスタンチノープル、ローマであった。 ... 七世紀に入ると、アラブ人の勃興が
 この地図を塗り替えた。エルサレム、アレキサンドリア、アンティオキアは
 アラブ人に占領され、キリスト教の大中心地の一つという地歩を失ってしまった。
 残ったのは、コンスタンチノープルとローマを中心とする 二大勢力だ。
 前者はギリシア正教(英語ではグリーク・オーソドックス)、
 後者はローマ・カトリックとなり、今日に至るまでキリスト教の大きな二つの
 流れをなしている。 オーソドックスは正統、カトリックは普遍的と言う意味。
 お互いに我こそはキリスト教の主流であり、最高指導者であるといい合っている
 わけで、事実、両者の主導権争いは延々と数百年間も続いたが、1054年に
 決定的に喧嘩別れをするに至った。 ギリシア正教は、その後バルカン半島から
 ロシアに広まったが、肝心の地元の方はイスラム教徒のアラブ、続いてトルコに
 蚕食され、1453年にはついにコンスタンチノープルもオスマン・トルコに奪われ
 てしまった。 ローマ・カトリックの方は、かつての帝国の境を越えてケルト人や
 ゲルマン人の間に教えを広め、後には新大陸にまで及んだから、現在の勢力分布
 では決定的にギリシア正教に水をあけてしまっている。その間、プロテスタントが
 ローマ・カトリックから分離したけれども、ギリシア正教に対する優位に
 ゆるぎはなかった。今日では全世界のキリスト教徒のうち約60パーセントが
 ローマ・カトリック、約24パーセントがプロテスタント、約14パーセントが
 ギリシャ正教(セルビア、ブルガリア、ルーマニア、ロシア正教などを含む)
 残り約2パーセントがその他の宗派だと言われている。 ギリシア正教とこれらの
 諸宗派をまとめて東方教会と呼ぶ。宗派が違い、信条の細かい点では違っていて
 も、典礼や宗教美術などの面では多分に共通性が認められるからだ。
 それに対してローマ・カトリックを西方教会と呼ぶ。日本人に馴染みが深いのは
 この西方教会の方である。西方教会ではローマ法王が至上権を持ち、世俗の国境
 を越えて、あらゆる国のカトリック教会に対して支配を及ぼしていた。それに対し
 ギリシア正教では、コンスタンチノープル総主教の権威はそれほどではなく、
 九世紀頃から各国別に教会の自立化が始まった。セルビア正教、ブルガリア正教、
 ロシア正教、後にはルーマニア正教が生まれ、それぞれ国に総主教 がおかれる
 ようになった。ギリシア正教ではビザンチン帝国皇帝を首長とする主義をとって
 いたので、ビザンチン帝国と政治的に対立するようになったセルビア王国や
 ブルガリア王国が、教会の自立化をおし進めたのはむしろ当然であった。
 しかし典礼、聖堂建築、宗教美術などについては本家ギリシア正教のものを
 そのまま受け継いだので、われわれの目から見れば本質的にはみな同じである。
 ただ何百年という長い時の流れの中で、それぞれ民族的な特色が加わったと
 いうに過ぎない。そこで西欧諸国や日本ではこれらをすべてひっくるめて
 ギリシャ正教、あるいは単に正教と呼ぶのが普通だ。例えば正教独特の壁画とか

 イコンの美しさを論じるには、その方が合理的なのである。特に民族的な特色を
 とりあげるような場合だけ、セルビア正教とかロシア正教とかいうことが多い。
 ところが「すべてをひっくるめてギリシア正教と呼ぶ」のは西欧諸国や日本で勝手
 にそうしているわけであって、現地の人はそうではない。例えばブルガリアの
 聖堂で「このギリシア正教の壁画は美しい」などといおうものなら、たちまち
 ピシッと訂正される。「いや、これはギリシア正教ではなく、ブルガリア正教の
 壁画です」と。十四世紀後半から」十五世紀にかけて、ロシア以外の正教諸国は
 ことごとくオスマン・トルコに征服されるという悲運に襲われた。トルコ軍侵攻の
 矢面に立たされた正教諸国とハンガリーは、西欧諸国の応援を得て何回も
 トルコ軍と決戦をまじえたが、そのたびに大敗したのである。西欧列強の支援を
 うけて正教諸国がトルコからの完全独立を果たしたのは、ギリシアが最も早くて
  1829年、ブルガリア、ルーマニア、セリビア、アルバニアなどは十九世紀末から
 二十世紀初めにかけてであった。このように長く続いたトルコ支配の時代に、
 それぞれの民族が自分たちの固有の文化のしんぼるとし、民族のアイデンティティ
 の拠り所ともしたのは、 ブルガリア正教、セルビア正教、などなどであった。
 ギリシアでも事情はまったく同じであったが、正教の本家本元であるため、
 複雑な経過をたどって、「ギリシャ民族のためのギリシャ正教」あるいは
「狭義のギリシア正教」ともいうべきものが醸成されるに至った。
「広義のギリシア正教」のトップであるコンスタンチノープル総主教は、
 代々オスマン・トルコ帝国政府の手厚い保護を受けて、極めて親トルコ的であり、
 また民族の垣根を超越して、すべての正教の最高指導者であるという意識が
 強かった。そのため、ギリシア人の間で高まってきた民族主義に対しては、
 はなはな冷淡であった。おまけにとるこ支配下の諸国で民族独立運動が盛んに
 なり、正教の僧侶が陰に陽にそのリーダーになるという事態が起こると、
 コンスタンチノープル総主教はトルコ政府の意を受けて、各国の正教と
 民族独立運動とを切り離そうという政策に協力するに至った。そんなわけで
 民族独立をめざすギリシャ人は、同胞でありながらコンスタンチノープル総主教
 とは一線を画し、「ギリシア民族のためのギリシャ正教」という道をとらざる
 を得なかったのだ。だから教義や典礼などの点ではまったく変わりない。なお、
 民族独立運動と正教とを切り離すためにコンスタンチノープル総主教から送り
 込まれたギリシア人の僧侶は、ブルガリア、セビリアなどでは激しい反発の的に
 なった。「おれたちの敵。トルコの犬だ」というわけである。
 今でもブルガリア人がブルガリア正教とギリシア正教を一緒くたんにされるのを
 嫌う背景には、このような歴史が尾を引いている。 数百年間もトルコに支配され
 ていた間、正教が民族文化のシンボルであり、民族のアイデンティティの
 拠り所だったこと、そしてトルコに対する血みどろの独立闘争において正教が
 精神的なバックボーンになっていたことは、セルビア、マケドニア、ブルガリア、
 ルーマニアにおいても、ギリシャと同様であった。しかし、これらの民族は
 第二次世界大戦に社会主義化の大波に洗われたため、今では宗教はあまり意味を
 持たないものになってしまった。それだけに今なお熱狂的に正教を支持している
 ギリシャ人の突出ぶりが目立つかも知れない。ギリシア以外の国々では、今や
 正教はどちらかといえばジイさんバアさん宗教なのである。其れでもこれらの
 国々には、千年以上もの歴史を持つ正教の文化遺産が豊かに伝えられている。

  われわれがひとくちに東欧と呼んでいる地域は、歴史的には二つの異なった
 文化圏に属してきた。ポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリー、
 スロベニア、クロアチアがカトリック文化圏、セルビア、マケドニア、ブルガリア、
 ルーマニアが正教文化圏である。狭い意味での東欧には入れない地域では、
 ギリシアとロシアとが正教文化圏の重要メンバーであることはいうまでもない。
 カトリック文化圏と正教文化圏では、単に宗教に関連した建築様式や美術工芸など
 の点ばかりではなく、文化の深層においても大きな差違がある。長い中世から
 近世にかけて、文化の伝え手、担い手は主として宗教家だったから、宗教の違いが
 文化全般に大きな影響を及ぼして来た。 現在ロシア語、ウクライナ語、
 ブルガリア語、セルビア語などで使われているこの系統の文字のもとになったの
 は、正教の僧侶だったキュリロスが九世紀の中頃に作り出したキリール文字で
 あり、正教と共に広くバルカン半島からロシアにまで伝えられた。キュリロスは
 熱心にスラブ人の間に正教を広めようと努力した人物である。その頃スラブ語に
 はまだ文字がなかったので、正教の僧たちはギリシア語で書かれた聖書や祈祷書
 を使って いたが、それでは民衆にはチンプンカンプンであり、布教がはかばかし
 くいかなかった。そこで、キュリロスはギリシア文字をもとにして、スラブ語を
 表記する便利な文字を開発し、スラブ語の聖書や祈祷書を作った。学者の研究に
 よれば、キュリロスが作ったのはグラゴール文字と呼ばれるもので、それから
 さらに派生したのが今日まで伝わっているキリール文字だという。
 しかしスラブ人に初めて文字を与えた彼のは名「キュリロスの文字」すなわち
 キリール文字として、いつまでも歴史に残ることになった。カトリック文化圏に
 比べると正教文化圏は政治的に不運であった。中心であるべきビザンチン帝国は
 イスラム教徒のアラブ人やトルコ人に領土を蚕食されて勢いが衰え、1453年には
 ついに滅亡されてしまう。それと前後して、バルカン半島の正教諸国も次々に
 トルコに征服されてしまったことは前記の通りである。その後は正教圏で独立国
 として残ったのはロシア(モスクワ大公国)だけであった。それから間もなく
 カトリック文化圏では人文主義、宗教改革、自然科学思想の勃興などが始まり、
 西欧社会に激変がもたらされた。もともとカトリック文化圏では著作らしい著作
 はすべてラテン語で行われる のが習慣であり、これらの新しい思想は
 ラテン語という共通の翼に乗って、どんどんカトリック文化圏内の各国に
 広まっていったけれども、正教文化圏へはあまり伝わらなかった。正教文化圏
 にもラテン語を解する者がまったくいなかったというわけではないが、
 その数はカトリック文化圏に比べると問題にならない程少なかった。
 ヨーロッパと聞いて、われわれ日本人がすぐに重い浮かべるイメージは、実は
 カトリック文化圏のそれなのである。(この場合はカトリックから枝分かれ
 して生まれたプロテスタントの文化圏も含む)。いいかえれば、
 われわれ日本人はこれまで正教文化圏のことをほとんど眼中においていなかった。
 幕末明治いらい、われわれ日本人はもっぱらカトリック文化圏であり
 プロテスタント文化圏である西ヨーロッパやアメリカを通じて、西洋文化を
 取り入れた。その頃の西ヨーロッパ人やアメリカ人は、不当に正教文化圏を
 見下した傾向が強かったので、彼らの偏った考え方がそのまま日本に入って
 きたのである。 唯一の例外はロシアの正教文化である。幕末以来日本に脅威を
 与え続けた強大な隣国として、ロシアは常に日本人の関心の的であったが、
 そのうちに主としてロシア文学を通じて、正教のことが少しずつ日本にも知ら
 れてくるようになった。現在は正教文化圏を旅する人が激増したことや、
 ビザンチン美術に対する関心が高まったことがあいまって、日本でもようやく
 正教文化が見直される気運にあるといえよう。

  教会の建築や礼拝の形式だけに限ってみても、東西の違いは非常に大きい。
 正教の教会の中に入ると、われわれがいつも見慣れている西欧の教会とは
 まったく感じが違うので、多少なりとも教会に関心を持っている者なら、
 たちまち好奇心をそそられる。堂内は荘重にほの暗く、天井から立派な銅製や
 銀製のランプが吊り下げられいる。会衆席の正面には木造や石像の大きな仕切り
 があり、祭壇はその背後に隠れていて、会衆席からは見えない。この仕切り
 のことを
イコノスタシスと呼び、大小とりまぜていくつものイコンが掲げられ
 ている。
イコンとはキリスト、聖母、聖人などを板に描いた聖画である。敬虔な
 信者たちが、礼拝の時間以外でも一人で教会にやってきて
イコンノスタシス
 前に跪き、熱心に祈っているのをよく見かける。異教徒のわれわれでも
 深い宗教的感銘を覚えるような雰囲気だ。
イコノスタシスに掲げられている
 いくつもの
イコンに片端から祈りを捧げ、口づけしていく人もいる。イコン
 口づけできるように、母親やおばあちゃんが子供を両手で持ち上げているのは
ほほえましい光景だ。礼拝のときには大勢の信者がやってきて燈明をともし、
 
イコノスタシスの前に跪く。ギリシャ正教の僧はヒゲもじゃで、黒い長衣と
 黒い帽子を着用している。礼拝の儀式は荘重そのものだ。僧だけが
 
イコノスタシスのくぐり戸から入って祭壇の前に進み、また会衆の前に戻って
 くる。
イコノスタシスより奥の方は僧だけが入ることを許される聖域と考えられ
 ているのである。
イコノスタシスとは「イコンが止まる所」というほどの意味
 だが、聖域の境をなしているため、日本では聖域壁と訳すこともある。
 盛んに香を焚くことも正教の礼拝の大きな特徴だ。僧が、もうもうと香煙をあげ
 ている振り香炉でもって聖域の中をくまなく香煙で満たし、それから会衆席に
 出てきて、信者一人一人に向かって香煙を振りかける。香炉には鈴のようなもの
 が付いていて、僧が香炉を振り動かすたびにカランカランと鳴る。
 香炉を振りながら巡回は二度三度と繰り返して行われ、しまいには堂内に
 香煙が充満して、息苦しいばかりになる。カトリックでも振り香炉は使うけれ
 ども、とても正教の比ではない。ギリシャ正教の教会には、立体的な偶像は
 まったくない。
イコン、壁画、モザイクのような平面的な図像ばかりである。
 これが西方教会とのもうひとつの大きな相違点である。
 ローマのサン・ピエトロ大聖堂、パリのノートルダム大聖堂などを思い
 浮かべてみるとよい。外側も内側も丸彫や高浮彫の偶像で満ち満ちている。
 ギリシャ正教の教会にはそれがないので、非常にすがすがしい感じがする。
 キリスト教の母体になったユダヤ教は、昔から偶像厳禁の宗教であり、今でも
 それを固く守っている。金や石などで作った像を噛みとして拝んではならない
 という戒めは、旧約聖書に繰り返して出てくる。キリスト教も最初は偶像厳禁で
 あったが、いつの間にか気持ちが緩み、信者が偶像を拝むのを黙認するように
 なり、ついには聖職者が布教の手段として積極的に偶像を利用するようになった。
 形ある物を拝みたいと思うのは人間の常。聖職者としても、目に見えない
 抽象的な観念としての神の存在を説くより、目に見える偶像を利用する方が
 手っとり早い。結局、西方教会では教会の内外に偶像が満ちることになって
 しまった。が、原始キリスト教により近く、正統を守っているギリシャ正教で
 は、偶像の仕様に一線を画した。しかも過度にリアルではない聖画はよいが、
 立体的な偶像は厳禁というわけである。 歴史的にはギリシャ正教の内部で
 しばしば、「平面的であるか立体的であるかを問わず、いかなる偶像にも反対」
 という運動が起こり、
イコンが燃やされ、壁画やモザイクが剝ぎ落されるという
 騒動があった。これを
イコノクラスム(偶像破壊運動)という。 しかし最後には、
 平面的でしかも過度に写実的でない聖画までよいという線に落ち着いたので
 あった。偶像厳禁という基本的原則からすればおかしいのであるが、形ある物
 を拝みたいという多くの信者や下級聖職者の欲求が勝ちを占め、一種の妥協が
 行われたのである。神学的には、次のような理論が考え出された。
 「金属や石の塊、絵具を塗った木板といった『物』自体を神として拝むのでは
 ない。聖画を仰ぎ見ることによって、神に思いを至し、諸聖人に思いを至して、
 姿なき神に祈り、進行を深めるよすがとするのである。聖画を崇拝するのでは
 なく、讃仰するのである」と。観光という立場からみると、わざと非現実的に
 描かれている聖画やモザイクしかないギリシア正教の教会は、非常に特異な
 宗教的雰囲気に満ちているように感じられる。右のような神学論にはお構い
 なしに、民衆は
イコンという物そのものに霊力が宿ると信じていた。
 教会ばかりではなく、各家庭でも朝な夕な
イコンに向かって礼拝し、旅人や
 兵士は小さな
イコンを懐中に入れてお守りにした。盾や剣のツカに小さな
 イコンを仕込んで、戦闘のときのお守りにした例も多い。病気やケガの際には、
 霊験あらたかな
イコンを患部に当てて、治癒を祈った。こういう点は、
 西方教会でキリスト像やマリア像、聖遺物などが崇拝の対象になっていたのと
 軌を一にしている。木村浩著『ロシアの美的世界』(新潮選書)によれば、
 革命前のロシア人はまさに
イコンに囲まれて生活していた。子供が生まれると、
 誰か聖人の名をとって子供に名をつける。例えばニコラというように。 
 そうすると聖ニコラはその子の生涯にわたる守護聖人になる。部屋には
 聖ニコラの
イコンを飾り、旅をするときにはお守りとして小型の聖ニコラの
 イコンを肌身離さず持ち歩く。職業に就くと、それぞれの職業によって決ま
 っている守護聖人がまた新たに一枚加わってくる。例えば、鍛治屋や
 金属工師なら聖コジマと聖デミヤンが守護聖人である。日常生活においても、
 泥棒が入れば盗品が戻るようにと聖フョードル・チロンの
イコンに願い、
 メンドリが卵を生まなければ聖マモントの
イコンに祈るというぐあいであった
 という。今でもギリシアのように正教の信仰が盛んな所では、どの家庭にも
 必ず
イコンが安置されているけれども、 それはちょうど日本の神棚のような
 感じである。イコンを患部に当てることによって病気がなおることを願うと
 言ったような、迷信的な要素はもはやなくなっている。正教文化圏では
 どこでも、よく土産店などで
イコンを売っている。制作年代が古くて美術品の
 部類に入るものは別として、こういう店で売っている
イコンはみな新作であり、
 値段が手頃な割になかなかよく描かれているものが多い。ロシアとか、
 ブルガリアとか、ギリシアとか、それぞれの国の郷土色が端的に表れていて、
 良いお土産になる』。
*新潮文庫「ヨーロッパものしり紀行<神話・キリスト教>編 /紅山雪夫著引用。 

少年の質問に戸惑い、釣人はホッと胸を撫で下ろした。決して覚える必要はない。
記憶のどこかに留まっただけで充分だろう。歴史や背景を知る事が旅の助けと
なって貰えば嬉しい。旅の終わりに、もう一度少年に「イコン」の印象を聞こう。
今晩は、宿部屋でヨーグルト定食とする事にした。近くのスーパーに調達に行こう!


 

温もりの部屋

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温もりの部屋

温もりの部屋

温もりの部屋

温もりの部屋

三人組の旅スタイルは、初日だけ出発前に宿予約しておく到着後現場計画型。
今晩は、オペラ座すぐ脇のゲストハウス泊。宿選び成功に「感謝乾杯!」。

街に到着。まず最初に、「ツーリスト・インフォーメーション」にて街地図の調達。
宿位置の確認、その他の現地情報収集で、いよいよ、我らの旅が始まる。道すがら
早くも、教会の石壁に「イコン」の予感が漂う。雪の出迎えに驚きながら、地図上を
宿へと急いだ。現地インフォーメーションで入手する見取絵付き街地図は、旅行者に
大助かりの道標だ。小雪はなごり雪となり、霙から小雨に変わった。荷物や旅着の
濡れを避けながら、宿へと歩き続ける。慣れない霙が三人の毛糸手袋を湿らせ、
釣人、少年と相棒の三人組は、白息で宿に到着。旅先での温もりの部屋に感謝する。


 

ソフィア 2015 (バルカンの風)

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ソフィア 2015

ソフィア 2015

ソフィア 2015

ソフィア 2015

ブルガリアエアー機は、三時間程の飛行でアルプスを越え、バルカン山脈を下る。
三月後半、思いも寄らぬ雪に見舞われた。ソフィアは遅い春を迎えようとしていた。

3/19 in 〜 3/25 out の旅が始まった。出発機は時差一時間を遡り飛行する。
学生時代に読んだ「ソフィアの秋 /五木寛之」が記憶の奥に残っていた。旅支度に、
釣人は防寒雨具を念入りに詰め込んだ。バルカン山脈の季節変わり目は油断大敵。
「ソフィアを中心に山村を回ろう!」旅の計画時から防寒予備着の心配が過って
いた。飛行機がソフィア(ブルガリア)へ到着。思いも寄らぬ雪に見舞われた。
湿った風が肌に冷たく感じられた。雪の洗礼は、ソフィアなら秋かな?との迷想を、
鱗を落とす如く、これから始まる三人組の春旅にドラマの演出をしてくれた様だ。
春まだ遠く、バルカン山脈を吹き降ろす風。鷲像が低空を滑走している様に思えた。
空港タクシーは避け、公営バスで街へ入った。小雪の街を一目散に予約宿へ向かう。


 

留守番

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留守番

少年へ伝言
一緒に「イコン」の村へ! ソフィア(ブルガリア) 6泊 7日の旅に出よう!
航空券三人分は手配済みだよ。パスポートと、防寒雨具を忘れずに! 釣人拝

 

ペースメーカー

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ペースメーカー

平行、下降、右上がり ... 。生活に追われながら、如何に探求時間を見出だそうか?
少年の訪問が散歩の合図だ。「良き友よ、ペースメーカーと見つけたり」 釣人拝。

季節が落ち着いて来ると「晴耕雨読」。冬場なら「三寒四温」と言うリズムがいい。
仕事手が詰まる頃合いに、少年が訪れる。今日も毎度、按配良く現れる。気が通じる
勘所は釣人仕込みと自賛している。釣人は忙しそうな顔をしながら、仕事エプロンを
外す。実は丁度、眼も疲れて来た頃合いなのだ。少年にもうバレバレなのだろうが、
此処はもう少し伏せておこう。街に住みながら、毛鉤釣りや旅に思い馳せての生活。
時間割りや生活資金調達にはペースメーカーが必要だ。其処が、少年の受け持ちだ。
少年なりに精一杯知恵をしぼって、何よりも、タイミングに気を使ってくれている。
若い鼓動に誘われ、一緒に街へ飛び出そう。春風と旅の相談でもしようじゃないか!


 

乾いた色 と 濡れた色

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乾いた色 と 濡れた色

釣人の色彩感覚には若干の拠り所が在る。「水に濡れた色」を想像する力だ。
毛鉤に巻かれたシルクフロスの色は、水を含むと、どんな色相へ移って行くのか?

バイスに固定した鋼鉤をラブレター(毛鉤)へと育てあげる。様々な想いが倒錯し、
巻人は夢の一刻を彷徨う筈だ。秘蔵の上質シルクフロスで、天女羽衣の様な絹衣を
纏わせる。勝負は此処に在り。如何に熟考の末での絹衣でも、このラブレターは、
水中で読まれる定めだ。「濡れたら、どんな色相へ移り変わって行くのだろう?」。
製作中、乾いた色だけで想像するとラブレターへは育たない。陸上で生きる己が、
水中へ思いを馳せるラブレター。あァ ... 、だからこそ、五里霧中を彷徨い続ける。
釣人は頭を掻いた。余り進歩していないのかナ?昔に培った力を懐かしんでいたら、
少年に肩をポンと叩かれた。釣人は、少年と共に新しい力を身に付けようと思った。


 

淑女の足音

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淑女の足音

釣人と少年は探求を競い合う良きライバル同志だ。少年の武器は、視力「鷹の目」。
釣人は、歳と共に緩んで来た視力から、聴力「兎の耳」へと作戦の転換をはかる。

歳は春と同様に、そっと近づいて来るものだ。学生時代は教室後列から教壇に立つ
先生の腕時計分針を読み取る視力を誇っていたが、最近は、気が付くとよくメガネを
磨き掛け直す動作が増えている。ソロソロと聴力に頼る準備開始。シアトル時代に、
星占い達人のヘレンおばさんに聴力には恵まれた感性を持つ筈と太鼓判頂いた記憶が
在る。音の波動を感じ取れれば、流れで少年とも充分競えそうだ。其の足音には、
さすがに、少々年季や年の功、時には修羅場も必要だから ... 。朝靄の流れに跳ねる
上品で微かな淑女の足音。この分野では、まだまだ少年に遅れを取るには早すぎる。

 

2015 解禁(川開き)

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2015 解禁(川開き)

地域により多少異なるが、今週末から、いよいよ鱒釣り解禁(川開き)を迎える。
2015年シーズン開幕に備えて、そろそろ冬眠中のシルクラインを起こす時間だ。

窓を開けて春風に晒してやろう。冬眠中に十分乾燥したラインには少量のグリースを
指で補充してやろう。冬越しのシルクラインが、ワインダーから眠そうに目覚めて、
ゆっくりと羽を伸ばす。寝惚け醒ましに多少のストレッチや柔軟体操も必要だろう。
冬眠前のシャワー(テクニック洗浄)で、古い油落しを終え、気持ち良さそうに乾燥
したシルクラインが起きて来た。2015年シーズン開幕を迎え、今期は、いよいよ、
少年と相棒と共に、シルクラインと繋がって行く年にする。昨年川閉めから準備した
様々な方法や効果を各自検証して行こう。釣人と少年は、外の春風を部屋へ招いた。

 

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