国立オペラ座:1887年建立ネオロココ様式の演劇場。1992年から国立オペラ座。
映画「アマデュース」はプラハの街で撮影された。この劇場が映画にも使われた。
相棒の提案で国立オペラ座で夜を過ごす事となった。インフォーメーション場で
当日空き席券を入手。相棒は映画「アマデュース」を思い浮かべ、釣人と少年を
説得した。上演はオペラ「Rigoletto」。ヴィクトル・ユーゴ原作をヴェルディが
オペラ化したものだ。イタリア語で歌われ、チェコ語と英語の訳が舞台上に映る。
実は、釣人にはこの劇場に忘れられぬ思い出があった。上演開始を待ちながら、
釣人は、昔の思い出へトリップして行った。89年 11月 17日「ビロード革命」後、
翌春 90年に、釣人は初めてプラハを訪れた。撮影スタッフと共に道具箱を抱え、
この劇場のメイク室へ案内された。混乱の民主化後、さすがにオペラ座も動いて
いた頃だったのだろう。コマーシャル撮影にも協力を惜しまない当時の状況だ。
その頃チェコスロバキア航空機内では、サービスでボヘミアンクリスタルが皆に
配られていた。国を挙げ変換期を旅行者の外貨で乗り越えようとしていた時期だ。
釣人は懐かしい天井の中へ吸い込まれて行った。まだ若く未熟な青年が見えた。
東京の大学を中退してアメリカへ渡る。語学を学んだコミュニティーカレッジから
フランスへと飛び出した。語学から技術へ。パリの専門学校を卒業し、再び渡米。
海外で生き抜く為には、世界レベルの技術が必至。米国にて「Book 」を完成する。
若者は撮影美粧師となっていた。「Book」を持ち、再びパリへ。スタジオを回る。
フリーランス時代が始まる。仕事道具箱を抱え、駆け回った。パリ拠点の時代の
波が、若者を強く押し流して行く。流れは、欧州全域にも及んだ。北は北欧から
南はアフリカ、東欧までも撮影ロケが広がる頃だ。シュウ ウエムラ師との出合い、
その後、J.M.DUBOS師とも出合った。そんなに遠くない昔の話だ。時の流れの中、
未熟だった若者は釣人になって行く。少年にも話してない昔話が沢山残っていた。
相棒が膝を叩く。少年は初めての舞台に目を丸くしている。音楽が聞こえ始めた。
釣人は一瞬、風に、電車が走り去る音を聞いた。何故か懐かしい昔の電車だった。