流れの倒木によじ登り、オニヤンマが羽化していた。釣人は竿を休め、誕生姿に見入った。
しっかり爪を立てた幼虫の抜け殻に摑り、これから飛ぶ空の陽光に己の羽を乾かしていた。
シルクラインで釣っていると静かな釣りに導かれる。シンセティックラインは滑りも良く手入れも簡単で、ダブルホール・テクニックなどの投法技術には非常に都合良い便利なラインだが、シルクラインは使用後の乾燥や手入れにことの他釣人の情熱と愛情を必要とする。その代わり ... 、ちょっと違う「何か?」を演出してくれる。着水音が違うのだ。シンセティックラインはどんなに気をつけてキャストしても、その加工成分からの「ピシャ」という工業的な音から逃れられない。シルクラインは数多くの手作業での工程を経た末、釣人の多大なケアが施されながら「生き物の静けさ」を身に付けていく様だ。汚れても科学的な浮力で浮く便利なシンセティックラインとは違い、シルクラインは釣り前に施された油でインターミディエイトな本体を辛うじて水面に弾いて浮力を持つのだ。水を弾く事で水面との滑りが良くなる結果、静かな着水音が生まれて来るのだ。釣人はいつもより静かに歩いている自分を感じていた。何時もなら見逃してしまう様な小さな物を感じ取れる「何か?」を貰っているのだ。流れの中に朽ちた倒木があった。その風裏のへこみの上部でオニヤンマが羽化していた。オニヤンマは成虫になる迄に 5年程の幼虫時代を山間部の流れで過ごす。幼虫時代には 10回程水中で脱皮するが、良く晴れた初夏の夜に幼虫はいよいよ成虫への羽化の為に岩や倒木に這い上がる。羽化後に体が滑り落ちない様にしっかりと爪を立てた後に背中が割れて成虫が羽化して来る。釣人は少年と相棒へそっと手招きで合図した。「オニヤンマが羽化しているよ!」釣人は出来るだけ小さな声で発見を伝えた。すでに羽を乾かして飛び立ちの時を待つオニヤンマに見入りながら、釣人は釣り後にゆっくりとシルクラインを乾かして、十分に手入れをしてやろうと考えていた。シルクラインが気づかせてくれた「桃源郷での新発見」に 3人は大喜びだった。