さようなら プラハ

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さようなら プラハ

さようなら プラハ

さようなら プラハ

「 A bientot, Prague !! 」 それは、再会への約束。永別の「 Adieu 」 ではない。
短かい息抜きだったが、釣人、少年、相棒には、元気の湧く楽しい休養だった。

「さようなら」としか言えない別れだが、幸田 文さんの文面から引かせて頂く。

 小さいときから川を見ていた。水は流れたがって、とっとと走り下りていた。
 そのくせとまりたがりもして、たゆたい、渋り、淀(よど)み、
 でもまた流れていた。川には橋がかかっていた。
 人は橋が川の流れの上にかけられていることなど頓着(とんちゃく)なく
 平気で渡って行った。私もそうした。
 橋はなんでもない。 なんでもないけれど橋へかかると、
 なぜか心はいつも一瞬ためらって、川上川下、 この岸あの岸と眺めるのだ。
 水は流れるし、橋は通じるし、「流れる」とは題したけれど、
 橋手前のあの、ふとためらう心には強く惹(ひ)かれている。 /幸田 文「流れる」

彼女の著書「木」に感銘を受け、「流れる」へと読み継いだ。まだまだ読み熟せては
いないが、巻末「著者のことば」は珍しく一読で心に響いて来るものを感じ取れた。
少年には以前も紹介したが、流れを前に立ち止まった時、何回も読み直している。
時の流れは、人、ひと粒の生を、「運命の力」で押し流しながら、海へと帰還する。

まだ未熟な青年や若者達が、時に流され、其れにもまれながらも、互いに信じ合い、
溶け合った、そんな感傷を思い出させてくれた。以前この道を歩いた時の感覚は
流れ去るものだが、いつかまた、空を越え川上からやってくるものだろう。この次は
どんな話を聞かせてくれるだろうか?暫しのお別れ。春へ「A bientot, Prague !! 」

 

プラハ「ジョン・レノンの壁」

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ジョン・レノンの壁

ジョン・レノンの壁

ジョン・レノンの壁

ジョン・レノンの壁

ジョン・レノンの壁

ジョン・レノンの壁

1980年 12月 08日、一発の凶弾がひとりの男(Love & Peace)を消し去った。
2003年 12月 11日、ヨーコ・オノはこの壁を訪れ、メッセージと YO を書き残す。

若者達がひとつの流れに惹かれ集まって行く。落書きだらけの壁にたどり着いた。
プラハには『ジョン・レノンの壁』と呼ばれる若者の集まる壁が今も残されている。

彼女が残したメッセージは『私たちのハートはひとつ、ジョン、愛してる。YO 』。 
時代を書き重ねたこの壁に、「YO」を探したが、もう何処にも見当たらなかった。
この壁は、流れる歴史の中で、数えきれない若者達に夢と希望を与えて来た壁だ。
壁は『ジョン・レノンの壁』と呼ばれた。釣人は相棒の助けを借りて少年に説いた。
80年 12月 08日、ジョン・レノン凶弾に斃れる。悲報がチェコ若者に届いたのは、
時差により 12月 09日だったらしい。其の日、ジョン・レノンを弔う若者一人が、
この壁にジョンの名と十字架を描いたそうだ。「ジョン・レノンの壁」の始まりだ。
以降、数々の希望や自由へのメッセージが、集まる若者達によって重ねられた。
この壁の歴史を知る為に、もう少し時代を遡ろう。何時ごろから始まったのか?
なぜこの壁だったのか?この壁と共に生き抜いた思いは?落書きの秘密を知ろう。
ここからは、相棒にバトンタッチ。少年は目を丸くして壁の秘密に聞き入っている。

壁の時代にもう一度戻ろう。60年代前半、ひとりの俳優 Jan Werich がこの壁の
すぐ近くに住んでいた。68年、チェコスロバキア共産党第一書記アレクサンドラ・
ドゥブチェクが革新的自由化政策を発表。芸術や文化にも表現の自由が開かれた。
「プラハの春」はこうして起こり、たった 4ヶ月で、国境越え介入した 60万に及ぶ
ソ連軍中心のワルシャワ条約機構軍により占領下に敷かれた。「チェコ事件」だ。
厳しい弾圧の再開、多くの俳優や芸術家、文化人達が国外亡命を選ぶ。そんな中、
当時の有名俳優であった Jen Werichも国外亡命を選んだ。一度亡命をしたものの、
弾圧を受けても祖国チェコへ戻る人生を決めた人だ。その人へ宛て、若者達が
賛辞を表し、この壁にメッセージや希望を書き始めたらしい。それが始まりだ。
この壁のメッセージは、最初は彼宛てに書き始められたものだった。書いては
政府警察に消され、消されてはまた書かれた。フランス大使館が近くにあった為、
警察も極端に厳しい規制が行えなかったとの話もある。同じくして、もう一人の
チェコ女性歌手マルタ・クビショヴァー/Marta Kubisova について知っておこう。

『マルタの祈り(Moblitba  pro Martu)』 で有名な女性シンガー。68年、彼女は
ジョン・レノン「Hey Jude」をチェコ語でカバー。この歌はチェコ共産主義時代、
弾圧へ反抗する人達にとって夢のシンボルであった。多くの知識人や文化人が
統制に従属してしまう中、彼女は、「歌」で戦う事を選んだシンガーだったのだ。
制圧下、彼等は地下放送局を作り、歌を流した。彼女は歌手を永久追放された。
歌えぬシンガーとなる。内職で生き抜いた彼女は、89年「ビロード革命」の広場で
再び「マルタの祈り」を歌った。20年に及ぶ長い冬だった。壁に込められた話だ。
相棒の説明を聞く釣人と少年の前で、若者が英語で「Hey Jude」を歌っていた。
壁は残され、誰でも自由に書き重ねられる。今、若者達は壁を背に自由を詠う。

話し終えた相棒は、少年の肩をトンと叩き、『ハートはひとつヨ』とウィンクした。
 

フラッシュバック・プラハ

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フラッシュバック・プラハ

フラッシュバック・プラハ

国立オペラ座:1887年建立ネオロココ様式の演劇場。1992年から国立オペラ座。
映画「アマデュース」はプラハの街で撮影された。この劇場が映画にも使われた。

相棒の提案で国立オペラ座で夜を過ごす事となった。インフォーメーション場で
当日空き席券を入手。相棒は映画「アマデュース」を思い浮かべ、釣人と少年を
説得した。上演はオペラ「Rigoletto」。ヴィクトル・ユーゴ原作をヴェルディが
オペラ化したものだ。イタリア語で歌われ、チェコ語と英語の訳が舞台上に映る。
実は、釣人にはこの劇場に忘れられぬ思い出があった。上演開始を待ちながら、
釣人は、昔の思い出へトリップして行った。89年 11月 17日「ビロード革命」後、
翌春 90年に、釣人は初めてプラハを訪れた。撮影スタッフと共に道具箱を抱え、
この劇場のメイク室へ案内された。混乱の民主化後、さすがにオペラ座も動いて
いた頃だったのだろう。コマーシャル撮影にも協力を惜しまない当時の状況だ。
その頃チェコスロバキア航空機内では、サービスでボヘミアンクリスタルが皆に
配られていた。国を挙げ変換期を旅行者の外貨で乗り越えようとしていた時期だ。
釣人は懐かしい天井の中へ吸い込まれて行った。まだ若く未熟な青年が見えた。
東京の大学を中退してアメリカへ渡る。語学を学んだコミュニティーカレッジから
フランスへと飛び出した。語学から技術へ。パリの専門学校を卒業し、再び渡米。
海外で生き抜く為には、世界レベルの技術が必至。米国にて「Book 」を完成する。

若者は撮影美粧師となっていた。「Book」を持ち、再びパリへ。スタジオを回る。
フリーランス時代が始まる。仕事道具箱を抱え、駆け回った。パリ拠点の時代の
波が、若者を強く押し流して行く。流れは、欧州全域にも及んだ。北は北欧から
南はアフリカ、東欧までも撮影ロケが広がる頃だ。シュウ ウエムラ師との出合い、
その後、J.M.DUBOS師とも出合った。そんなに遠くない昔の話だ。時の流れの中、
未熟だった若者は釣人になって行く。少年にも話してない昔話が沢山残っていた。
相棒が膝を叩く。少年は初めての舞台に目を丸くしている。音楽が聞こえ始めた。
釣人は一瞬、風に、電車が走り去る音を聞いた。何故か懐かしい昔の電車だった。

 

プラハ 「北国の秋」

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北国の秋

北国の秋

北国の秋

パリより東北東、高緯度のプラハは、一足早い初冬の気配を漂わせていた。
暖かい日でも、街人は薄手の防寒着を忘れない。空は低くなり、冬を迎える。

釣人、少年、相棒の三人組は、風にまかせて、のんびりと北の街を歩いた。
いい匂いがすれば立ち寄り、ウィンドーを覗いては芸術論に花咲かせていた。
三人は、「寅さん」休暇を満喫した。季節は北国の秋だ。パリより一足早い
黄色葉に、大陸の初冬が忍び寄っている。歩き回ると、お腹が、空いて来る。
相棒が嗅ぎ出し、少年が駆け寄った。薪火に美味しそうな焼肉が煙っている。
釣人は昨晩のビールに感動した。久しくビールから離れ、ワイン一筋だった。
プラハではビールを! との勧めに一口。麦の薫りを嗅いだ。あァ 旨い!!
合点の相棒も、今日は白ワインにと、空腹待ち。少年は飲みより食との宣誓。
橋で結ばれる城下町と旧市街とを行き交いながら、少年が、お腹を、鳴らした。
東欧の北の街、厳しい寒さが訪れる。さァ 食べよう!冬の薫り味わいながら。

 

プラハ 「Before I die ... 」

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Before I die ...

Before I die ...

Before I die ...

Before I die ...

Before I die ...

公園の中、『 Before I die  ... 』の黒板掲示。後に『 I want to ___ 』が続く。
作品だろうか?黒板の下には、自由に書き込むチョーク入れがぶら下がっていた。

儚く短かった68年「プラハの春」は、89年「ビロード革命」にて遅すぎた春陽を
迎えた。民主化直後のプラハは、まだまだ揺れ動いていた。当時の翌年春 90年に
釣人は撮影スタッフと同行してプラハを訪れたのだが、まだ暗い町の商店街には、

ウィンドーに置かれたテレビに大勢人だかりがあった。厳しい越冬をソーセージと
パン、ジャガイモで耐え忍んで来た人々が多かった時代だった。パリへ戻る際に、
スタッフ多くが美術品を、特に絵画を買いあさって行った。持ち出し規制を逃れる
為に、プレゼントとの手紙を添え、有名画家の絵を破格値で買い帰った頃でもある。
金の値段すら、旧体制と新体制のグレー時代でもあり、国全体が激しく揺れながら、
市民全体で忍んだ時期だった。やがて、広場に手向けられた赤い蝋燭は減り始め、
街はどんどん明るくなった。遥か遠かった夢が、手探りで触れられる時代を迎える。
時代は人の一生より早く流れるのだろうか?残された人々は黒板に夢を書き込む。
秋雨で流される黒板に、今の夢が書き残されている。

 Before I die 「I want to fall in Love」,
 Before I die 「I want to live in U.S.A, lot of fun」,
 Before I die 「I want to kiss everybody」, ... 。

英語だけが読み取れた。三人はチョークを探ったが、一本も残されていなかった。
「何んて書こうとしたの?」互いに聞きながら、三人は冗談だけしか言えなかった。

 

プラハ 「秋靄の中で」

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秋靄の中で

秋靄の中で

秋靄の中で

秋靄の中で

秋靄の中で

ヴルタヴァ川は秋靄。カレル橋の景色も最高潮。橋脚の傍には釣人がいた。
明ける静けさの中、堰堤の川音が石橋に響いている。約束の秋靄に恵まれた。

久方振りの再会だった。思い出の石橋は、焼き付いた姿のまま、微笑んでくれた。
「あれからどうやって生きていたんだい?」問いただすカレル橋に釣人は俯いた。
「三人組でやって来たんだ」。今は仕事道具箱は抱えてない。釣人になったんだ。
指輪の裏側には 89' 相棒の名前が刻んである。釣人は、少年をそっと前へ押した。
「一緒に探究を続ける仲間だ」。時の流れの中で、「風の釣人」を目指している。
釣人が頭を掻いている間に、少年が叫んだ。「釣れたみたいだよ!大きいゾ!」。

釣人の日暮らしだが、季節の仕事を熟しながら、昔変わらず、パリで生きている。
 

プラハ 「カレル橋」

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カレル橋

カレル橋

カレル橋

カレル橋

カレル橋:着工1357年、 1402年完成の石橋には、15の美しいアーチがある。
プラハ観光の名所橋は、1841年まで旧市街と王宮を結ぶ唯一の石橋だった。

「ヴルダヴァ川は秋靄かな?」到着日は高温、翌早朝こそ、美しい橋を渡る時だ。
釣人はおぼろげな記憶で、かって見た美しい橋を思い出していた。朝靄がいいのだ。
夕景のライトアップに移ろう姿も美しいが、やはり、光は一つ。明ける光に朝靄だ。
釣人は少年に頷いた。温まった水に早朝の寒さが美しい秋靄を川一面に湧き上げる。
ふと、秋の休暇に恵まれた。秋靄を、最高に美しい橋を二人に見せてあげたかった。
朝食前にこの橋を渡ろう。パリを流れるセーヌと違い、橋傍に小さな堰堤がある。
「川音が聞こえるよ」少年が真っ先に聞き分けた。石橋には流れの音が響いている。
歩行者専用の石橋として時を越えて来た橋が、渡りきる迄に昔話を聞かせてくれる。
変わらぬ美しさが在った。仕事から解放された相棒は「自由だ !!」と両手を上げた。
相棒の思い立った小旅行。釣人は少年へ約束した。「きっと美しい秋靄が出る!」。
 

プラハ 「橋のある街」

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橋のある街

橋のある街

橋のある街

橋のある街

ヴルダヴァ川が旧市街と城下町を別ける。古都、石の街は尖塔の街でもある。
川で隔てる両岸はパリをも思わされるが、街中の川幅は遥かに広く 500m+を越す。

もし、定住の街を選べるなら、釣人は「橋のある街」で過ごすだろう。これに関して
少年もほぼ異存なしと思われる。散歩道の途中、川風に吹かれて、左岸へ、右岸へ、
渡り歩く夢が持てるからだ。欄干を渡る釣人と少年は、ひょっとして、散歩に出でた
犬の如し、しっぽ振りながら笑顔で歩いているだろう。この川は遥かドイツへ流れて
海に下る大河だ。釣人と少年はいつもより大きな川を眺めながら、ゆっくり渡った。

昼過ぎに出発したパリは珍しく暑さぶり返す高温だった。北緯から想像したプラハも
予想外の高温晴天。汗をかいたが、明朝の秋靄には大いに期待が持てた。雨続きで
心配した天候もプラハの歓迎に三人は感謝した。少年は久しぶりの脱出でご機嫌だ。
相棒と少年は初回プラハに欧州中央の古都を感じ、釣人は夕食のビールに期待した。

 

チェコ 「プラハ 2013 」

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チェコ「プラハ 2013 」

プラハ:人工 120万人。チェコ共和国首都(北緯 50度 02分、東経 14度 45分)。
68年「プラハの春」へワルシャワ条約機構軍侵攻。89年「ビロード革命」を生む。

パリ発、飛行約 1時間半プラハ国際空港ターミナル 2(シェンゲン協定国内)到着。
釣人は今回三度目のプラハ。縁に結ばれた古都だ。一回目は、 89年 11月 17日の
「ビロード革命」後翌春 90年。二回目は、 2年後の 92年だったと記憶している。
共に随分の時が経ていた。当時は入国が面倒であったが、今回はシェンゲン協定で
協定欧州圏、仏国からパスポート・ノーチェック、ことの他スムーズに入国出来た。
時代は変わった。まだ熱かった、「ビロード革命」を遂げた国に仕事道具箱を抱え、
降り立った記憶が再び込み上げて来た。プラハは、何故か縁に結ばれた感傷が残る。
当時は、まだ階段広場「ヴァーツラフ像」周囲一面に、おびただしい数の赤い蝋燭が
手向けられていた。68年「プラハの春」はワルシャワ条約軍侵攻により占領制圧。
翌年 1月、力に打ち砕かれた春へ、抗議した一人の学生「ヤン・バラフ」が、其の
像前にて焼身自殺を遂げた。灯された赤い蝋燭の数、今でも、心に焼き付いている。
再び訪れた際は、随分数が減っていた。時の流れが、釣人の心に切なく焼きついた。
三回目の訪問。明るい街が在った。釣人は少年、相棒と共に時の流れへ歩き出した。

 

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